テーマ ロシアとオスマン帝国(ロシアとオスマン帝国についてのまとめと用語などです。)
ロシアとオスマン帝国 |
ロシア皇帝の近代化政策 エカテリーヌ2世(ロシア皇帝在位:1762〜1796)…西洋風の文化を取り入れる。大黒屋光太夫が謁見する。啓蒙専制君主といわれる。 アレクサンドル1世(在位: 1801年〜1825年)…ピョートル3世・エカテリーナ2世の孫。パーヴェル1世の子。ナポレオンと戦う(ナポレオン戦争ロシア戦役・1812年)。ウイーン会議に出席。 ニコライ1世(在位1825年-1855年)…アレクサンドル1世の弟。南下政策を推進。クリミア戦争を起こす。クリミア戦争中に急死。 アレクサンドル2世 …クリミア戦争中に皇帝に即位。クリミア戦争の敗北は、自国ロシアの国の仕組みが遅れているためである事をさとり、農奴解放令・大学令・司法制度改革・軍制改革・税制改革などを行う。 クリミア戦争(1853 - 56)とロシア・オスマントルコ ロシアはクリミア戦争でオスマン帝国・英仏に敗れ、アレクサンドル2世(ニコライ1世の子:在位1855年 - 1881年)は内政を重視した改革を行った。農奴を解放し、しかし、その後に農民1人当たりに与えられた土地は少なかった。少数の中産階級が現れた。1860年には北京条約を清との間で結び、割譲した土地に、不凍港ウラジオストクを建設した。1867年にはアラスカを米国に売却した。アレクサンドル2世は1881年に爆殺された。 オスマン帝国は16世紀からの凋落傾向が続いていた。ロシアとはバルカン半島や黒海周辺の支配権争いをしていた。支配下のエジプト・ギリシャ・アルバニアでは独立の運動が起こった。イギリス・フランスは、ロシアの勢力拡大に危惧を抱き、オスマン帝国を支援した。英仏はオスマン帝国に味方しロシアに宣戦布告しクリミア戦争(1853〜)が起こった。それと平行して、英仏は当該地域に支配権の拡大を図った。エジプトでは、オスマン帝国の宗主権の元でのムハンマド・アリーが1805年に国家を樹立して近代化を計り、1869年にスエズ運河も開通したが、1883年には、イギリスはエジプトに対する支配権を確立した。 露土戦争(1877年 - 1878年) オスマン帝国に支配されていたバルカン諸民族の独立運動ほう起にロシアが加わって発生。ロシアとしては南下を進めるための戦争でもあった。ロシアの勝利で戦争は終わりサン・ステファノ条約が結ばれたが、ロシアの勢力拡大に対して欧州各国が反発した結果、ビスマルクが仲裁してベルリン条約が結ばれた。ベルリン条約ではサン・ステファノ条約で認められたセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が引き続き認められた。 オスマン帝国の凋落と汎ゲルマン主義・汎スラブ主義 1908年、トルコで青年トルコ人革命が起きると、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの両国を併合。ブルガリアはオスマン帝国から独立。一方ロシアは1912年にロシア主導でバルカン同盟(ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ)を結成し、同年オスマン帝国に対し宣戦布告(第1次バルカン戦争)し勝利した。その後バルカン同盟内で仲たがいが生じ第2次バルカン戦争が発生した。仲たがいの一方であるブルガリアはオーストリアに接近した。またオスマン帝国もオーストリア・ドイツに接近した。 |
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キャビア |
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